ロルカーン | The Elder Scrolls Online 外部蔵書庫

神々

Divines and Deities

アヌアドの解釈The Anuad Paraphrased

最初のものたちはアヌとパドメイの兄弟でした。彼らが「虚無」にやってきて「時」が始まったのです。

アヌとパドメイが「虚無」をぶらついていると、光と闇がまざりあってニールが生まれました。アヌもパドメイもニールの出現に驚き、喜びましたが、彼女が愛したのはアヌでした。パドメイは傷心のまま行方をくらましました。

ニールは身ごもりました。ところが、赤ちゃんを産む前にパドメイが戻ってきて、ニールへの愛を打ち明けたのです。私が愛しているのはアヌだけなの。そう告げられたパドメイは怒りにまかせて彼女を打ちのめしました。アヌは帰って来てパドメイと戦い、「時」から追放しました。ニールは「創造」を産み落としましたが、殴られた時の傷のせいで間もなく死んでしまいました。アヌはとても悲しみ、太陽の中に隠れて眠りにつきました。

そのあいだに、「創造」の十二界に生命が芽吹き、繁栄していきました。いくつもの時代が流れてから、パドメイは「時」に戻ることができました。「創造」に会うと、憎しみがわいてきました。彼は剣を抜き放すと、それぞれがつながっている十二界をずたずたに切り裂きました。アヌが目覚め、またもやパドメイと戦いました。長い、激しい戦いのすえ、アヌが勝利しました。パドメイは死んだものと思われました。アヌはパドメイを捨て置いて、十二界の破片をかき集めて一つの世界ニルン、つまりタムリエルにすることで「創造」を救おうとしました。その時でした。パドメイの死に際の一撃がアヌの胸を貫いたのです。アヌはパドメイにしがみつくと、パドメイもろとも「時」の外へと身を投げました。

パドメイの血はデイドラとなり、アヌの血は星となりました。二つの血が混ざり合うと、エドラが生まれました。(そのため、エドラは善にも悪にもなれるのです。「創造」とのつながりがないデイドラよりも、エドラのほうがこの世の出来事に深く関わっているのも頷けます)

ニルンの世界は混沌に満ちていました。「創造」の十二界の唯一の生き残りが、エルノフェイとヒストでした。エルノフェイはエルフと人間の祖先で、ヒストはアルゴニアの樹木です。ニルンは内陸の海原を含めたすべての大地ですが、大洋ではありません。

エルノフェイの世界の巨大なかけらは、それほど壊れることなくニルンに落ちました。エルノフェイの民はそのままそこで暮らし、エルフの祖先となったのです。エルノフェイの民は外界の混沌とをへだてる境界を強化し、彼らの静かな土地をこっそりと隠して、これまでと同じように暮らそうとしました。十二界が裂けたことによる大混乱のさなかには、他のエルノフェイの民もニルンにやってきて各地に散らばり、何年ものあいだ、仲間を見つけながらさまよい歩きました。最終的に、エルノフェイの流浪の民は、前時代のエルノフェイの民が暮らす秘密の土地を探し当て、自分たちの親戚がいにしえの壮麗な暮らしをつづけていることに驚き、喜びました。流浪の民は、この安息の地で歓迎されると思っていましたが、エルノフェイのいにしえの民にとって、彼らは落ちぶれた下劣な民でしかありませんでした。詳しい理由はわかりませんが、戦争が起こり、ニルン全土へと戦火が広がっていきました。いにしえの民が古代の神秘や知識を受け継いできていたとはいえ、流浪の民は数で勝っていたばかりか、長いあいだニルンで懸命に生き抜いてきたため、とてもたくましかったのです。この戦いはニルンの様相を一変させました。たくさんの土地が海に沈み、現在、わたしたちが知る土地(タムリエル、アカヴィル、アトモーラ、ヨクダ)だけがあとに残りました。いにしえの民の土地はこの争いで手ひどく荒らされたものの、後にタムリエルとなりました。生き残った流浪の民は、三つの大陸に散っていきました。

長い時を経て、タムリエルのエルノフェイの民は次のように分かれました。
・マー(エルフ)
・ドゥエマー(深きもの。ドワーフと呼ばれることも)
・チャイマー(変わりしもの。のちのダンマー)
・ダンマー(黒きもの、忌まわしきもの。ダークエルフ)
・ボズマー(緑の民、森の民。ウッドエルフ)
・アルトマー(古きもの、高きもの。ハイエルフ)

他の大陸では、エルノフェイの流浪の民が人間となり、アトモーラのノルド、ヨクダのレッドガード、アカヴィルのツァエシとなりました。

ヒストの民はエルノフェイの戦を黙って見ていましたが、彼らの領地のほとんどは戦渦に巻き込まれて滅びました。難を逃れたわずかな土地はタムリエルのブラック・マーシュとなったものの、その大半は海のもくずと消えました。

やがて、人間がタムリエルに戻ってきました。まず最初に、伝説的人物、イスグラモルの率いるノルドが、先史時代にタムリエルの北岸に入植しました。歴史的文献に初めて登場したノルドは、彼の家の十三代目にあたるハラルド王です。この王の出現によって、神話の時代は終わりを告げたのです。

ヴィベクとメファーラVivec and Mephala

アルムシヴィとは何者か?

モロウウィンドは聖なる国で、神々は血肉を備えている。これらの神々は総じて、トリビュナル、三位一体のアルムシヴィ、ダンマーの徳を体現する三大神と呼ばれている。アルマレクシアは慈悲を、ヴィベクは統制を、ソーサ・シルは神秘を体現する。彼らのうちでヴィベクが最も人気を得やすい。ヴィベクはまた、最も大衆的である。というのも彼は愛された戦士、真なる民の詩人で、美しさと残忍さという相反する性質を備えていたからだ。ヴィベクは風雅な暴力である。ヴィベクはモロウウィンドの聖なる王の1人として、聖堂の文学や典礼に描かれている。彼はヴァーデンフェルという聖ヴェロシの亜大陸を守護し、レッドマウンテンを見張っている。彼は聖トリビュナルの1人で、新聖堂の神、そして神聖にして高潔なアルムシヴィの姿である。

守護神王かつ戦士詩人ヴィベクについてのこの明確な説明は、西の者にとってはもっともよく目にする上になじみのあるものだ。しかしヴィベクがダンマーにとっては、彼の守護者である黒き手のメファーラ、すなわち最初期のチャイマーを作ったデイドラの進化した姿であったことを覚えておくことは重要である。このヴィベクの闇の側面は、人気のある文学や典礼には出ていないが、ダンマーにはヴィベクの神聖な側面に不可欠な部分として無意識に理解され、受け入れられている。ヴィベクの複雑な性質をさらに完全に理解するには、ヴィベクの守護者メファーラの性質と、このデイドラの主の流儀と動機によって表される闇の主題についての理解が必要である。

メファーラとは何者か?

トリビュナルの三大神にはそれぞれ、チャイマー文化の黎明期にその守護者となる存在が描かれている。この守護者は、西では邪悪なデイドラの主アズラ、ボエシア、メファーラとして知られている。聖堂の神学では、アズラはアルムシヴィの魔術王ソーサ・シルの守護者である。ボエシアはアルムシヴィの母にして淑女たるアルマレクシアの守護者だ。メファーラはヴィベクの守護者である。伝説によれば、この3人のデイドラの主の導きにより、現状に不満を抱くアルトマーの群衆が自らを新たな人類に変え、新たな地を創り上げた。策略のデイドラの主として知られるボエシアがこの変化を引き起こすのに必要な革命的な方法を授けたが、メファーラはそれらの方法の陰の開発者であった。

西で知られているように、メファーラは殺人と性と秘密の悪魔である。これらの主題にはどれも、微細な側面と激しい側面が含まれる(暗殺と虐殺、求愛と乱交、配慮と詩的な真実)。メファーラはこれらの相反する主題を逆説的に含み、統合すると考えられている。これらの微細な暗示と矛盾はどれもみな、聖堂の教義では明示も説明もされていないにもかかわらず、ダンマーの持つヴィベクの概念の中には存在するのである。

ダンマーはヴィベク卿を殺人と性と秘密の怪物として思い描くことはない。むしろ彼らはヴィベク卿を善の王、守護戦士、詩人で芸術家として思い浮かべる。だが同時に、無意識にではあるが、彼らはヴィベクの善なる側面の下にほの暗く隠された底流があるという概念を受け入れている。

たとえば、ヴィベクにまつわる長く伝えられる神話の中で最も目を引くものの一つに、彼が支配者の仲間であるアルマレクシアとソーサ・シルと共謀して、ダンマー最高の英雄にして将軍のネレヴァル卿の殺害を企てた物語がある。この物語はアッシュランダーの口承に由来するが、聖堂のどの伝承とも全面的に矛盾している。それにもかかわらず、この話はダンマーの想像力の中に確固たる地位を築いている。それはあたかもこう言っているかのようだ。「もちろん、ヴィベクがネレヴァル卿を殺そうと共謀したはずはないが、とても昔に起きたことだ…誰が真実を知り得るだろうか?」

ヴィベクの表向きの顔は温和で繊細、思いやりがあって下の者を守るというものだ。同時に、ヴィベクの隠された側面、すなわち守護者の持つ、もっと原始的で無慈悲な衝動に関連した、暴力や性欲や陰謀の混じった闇の側面に、ダンマーは見境のない満足を覚えているように思われる。

タムリエルの神々と崇拝についてGods and Worship In Tamriel

タムリエルの神々と崇拝についての概要

帝国大学研究序説部準代書人 ヘッチフェルド修道士 著

神々とは、世界の事象への関心を示すことによって評価されるものだ。ここにはありふれた事柄に神が積極的に関わるという基本理念があるが、疫病や飢饉に対する神々のあからさまな無関心ぶりを鑑みることでその危うさに気づかされよう。

伝説的偉業への介入から日常生活における実体化まで、タムリエルの神の活動に何らかのパターンが認められたことはない。いろいろな意味において、神の関心は定命の者の領域の毎日の試練とは関係がないか、少なくとも関心がないように思える。だが、例外はもちろんある。

歴史的な文献や伝説の多くが、絶望の時代に神、あるいは神々の直接介入があったことを指摘している。たいていの英雄譚では、神のため、神の聖堂のために働き、戦った勇者に授けられた神の祝福について語られている。この世で知られている強力なアーティファクトのいくつかは、元々こうした褒美として神から与えられたものだ。徳のある司祭なら、望みが失われた時は聖堂で神に呼びかけ、祝福や援助を求めることができるという報告もある。こうした神との接触や与えられる祝福が実際にどのようなものであるのか、それについては推測するより他はない。というのも、聖堂はこうした神との交流は聖なるものであるとし、秘密にしておくからである。これらの接触が事実であるなら、神が俗世のことを気にかけていると信じているものにとっては心強いかぎりだろう。が、多くの状況において、まったく同じ神々が、苦痛や死の瀬戸際にあるものたちを前にしても手をこまねいて見ていることがあるのだ。まるで、手を下す必要などないと言わんばかりに。つまるところ、神の用いる理屈や論理は人間の理解のほとんど及ばないところにあるのではないかという結論が導かれる。

すべての神や女神に共通するはっきりとした特徴のひとつが、崇拝や奉仕への興味であろう。神聖なる探求としての奉仕は、神々の気を引く数ある行為のうちのひとつでしかない。各聖堂の規律や義務に従うことは日々の暮らしにおける奉仕の形であり、神々を満足させると考えられている。聖堂で執り行われる儀式もまた神々の気を引くにはもってこいだろう。どういう儀式にすべきかは対象となる神々にとって異なる。結果がはっきりと目に見えるとは限らないが、犠牲や捧げ物も神々の関心をこちらに向けさせるために欠かせないとされる。

毎日の聖堂生活における神々の直接介入が報告される一方で、平凡な暮らしにおける神々の存在が実際のところどういったものであるのかについては、おおいに議論の余地があろう。ウッドエルフのことわざに「こちらの奇跡はあちらの事故」というものがある。毎日の暮らしに積極的に介入するとされる神もいるが、他方では、移ろいゆく出来事への無関心ぶりで知られる神もいるわけだ。

一説によると、賞賛や犠牲や奉仕による崇拝などから神々は実際に力を得ているという。神々の社会における総合的な地位は、その崇拝者の数によって決まるという論理すら成り立つかもしれない。これはあくまでも私的な推論でしかないが、小規模な宗教施設と比較して、大聖堂では神の祝福や支援がさしたる苦労もなくあっさりと手に入るという明白な事実がその根拠となっている。

別の報告書によるとこの世には、人間の行動や奉仕を自らの力に変えられる能力を持つ、まるで神のような霊魂が存在するという。こうした霊魂の真の姿を解明することで、神と崇拝者の絆についてのいっそう深い理解が得られることだろう。

こうした霊魂が存在することで、彼らは神や女神の領域まで自らを高められさえするのではないかという推測が導き出される。帝国神学校のモツスオは、こうした霊魂が時の流れと共に信者のほとんどすべてを失った神や女神のなれの果てであり、神格の本源ともいえる最古の姿に退行したものではないかという説をとなえた。「古代の流儀」を実践するものたちは、この世に神がおらず、上級と下級の霊魂のみが存在すると口にする。ひょっとすると、これらの説はどれも真実であるのかもしれない。

モノミス:「シェザールの歌」Monomyth: “Shezarr’s Song”

シロディール「シェザールの歌」

これはシェザールが神に説明した新たなことだった。母親や父親になること、責任を持つこと、成功の保証なく大きな犠牲を払うことを話したが、その話し方が見事だったため、神々は心を動かされ、疑問や涙を飲み込んだ。エドラは自分達の一部から新たな生命を創れるように、世界や獣や他の生き物に自ら生命を生む権利を与えた。しかしこの自ら生命を生む権利は大きな痛みを伴う物で、この後エドラは創始の頃より持ち続けていた若さ、頑健さ、力強さを失ってしまった。

中には自分達が失った物に失望し、憤慨するエドラもいて、彼らはシェザールが自分達に嘘をついて騙したと感じていたため、彼自身と全ての創造に対して腹を立てた。アーリエルを筆頭とするアルドマーの神々であるこれらのエドラは、弱体化した自分自身と自分達が創ったものに嫌悪感を抱いた。「今も未来も全ては駄目になってしまった。我々にできるのは、エルフの種族に威厳を持って気高く我慢することを教え、自分達の愚かさを責めて、シェザールとその仲間に復讐を果たすことくらいだ」だからエルフの神は暗く陰気なのである。だからエルフは定命であることに満足できず、この苛酷でろくでもない世界の厳しさの中でも誇り高く冷静でいられる。

他のエドラは想像を見て、とても喜んでいた。これらのエドラはアカトシュを筆頭とした人間と獣人の神々で、彼ら定命の種族を褒めたたえ、大事にした。「我々は癒えることない痛手を負い、衰え続けるが、我々の作った定命の者世界は輝かしく、心と魂を希望で満たしてくれる。定命の種族に良い生き方や美しさと誠実さを大切にすること、そして我々が彼らを愛しているようにお互いを愛すことを教えよう」だから人間の神々は優しく忍耐強い。だから人間と獣人は楽しむ心や苦しむ心を持ち合わせ、より素晴らしい知恵とより良い世界に大きな望みを抱いているのだ。

デイドラの主はシェザールの言葉を聞き、彼と他のエドラをあざ笑った。「自分達の一部を切り離す?しかもそれを失う?永遠に?そんなの馬鹿げている!きっと後悔するぞ!我々はお前達より賢い。世界は自分達で創るが、切り離したりも、馬鹿にさせたりもしない。完全に支配できる、永遠に自分達のものとなる世界を自分達の中に創る」

そうしてデイドラの主はデイドラの領域と、偉大な者も低級な者も含めた下級デイドラを作った。デイドラの主の身近には常に崇拝者やしもべや玩具ができたため、彼らは大変満足した。しかし同時に彼らは時折、羨みの目で定命の者の領域を見ていた。確かに定命の者は粗野で力も弱く卑劣だが、その情熱や野心は愚かな下級デイドラと比べてずっと驚きがあり、面白かったのだ。これゆえ、デイドラの主は興味深い定命の種族の生き物、特に情熱的で力強い者に言い寄り誘惑する。彼らにとって、野心を抱く偉大な定命の者をシェザールとエドラから盗み取るのは、至福の喜びなのだ。「お前達は自分をバラバラにする愚か者だ」とデイドラの主はあざ笑い、「その上、自分達の一番上等な欠片を引き止めることすらできない。彼らは考えがまとまっていないエドラの愚かな低俗さよりも、デイドラの主の栄光と力を選んだぞ」と言った。

モノミス:アービスの神話Monomyth: The Myth of Aurbis

アルテウムの擁護者達は、副題に「サイジックの対価」と付けられた「神話のアービス」の中で、ユリエル5世が統治していた初期の最も華々しい時代における、基本的なアルドメリの宗教について皇帝に説明している。この中ではロルカーンの概念に対する批判や偏見が巧みに避けられている。これはシロディールの者達から神々の失われた兄弟「シェザール」として尊敬を集めている存在だ。これにも関わらず、サイジックは古代の視点を見事に概要としてまとめてくれているため、我々のここでの目的を果たしてくれる。この版は帝国神学校の保管所にあった、身元不明の書記官の手書きの書である。

謎のアービスは架空の不自然な領域として、計り知れないほど昔から存在している。

「アービス」はアヌとパドメイの肯定的および否定的存在とのグレーゾーン、つまり判断しにくい曖昧な部分を暗示するために使われている。これには、エセリウスやオブリビオンなどの組織化がそれほどしっかりしていない多数の領域が含まれる。

神秘のアービスから派生した魔法的存在は長い時間をかけ、物語にぴったりな複雑な道を歩みながら、神話を形成していく。

これらは不死の両極性の一部から作られた魂である。これらの最初となったのが時のドラゴン、アカトシュであり、アカトシュの形成によって他の魂が自分達を形成しやすくなった。神と悪は形成を繰り返し、子供をもうける。

最後に、神秘のアービスの魔法的存在が究極の物語を伝えた。彼ら自身の死についてである。これはある者にとっては、具体的で魔法のない世界への芸術的な変貌だった。他の者にとっては、すべての者が殺され、その身体を世界の物質の一部とする戦争だった。または、親の魂が死に、続いていく定命の者達に道を譲るというロマンチックな結婚と子育てだった。

この共有判断をもたらしたのは初期の神話で詐欺師やペテン師と非難されたロルカーンである。もっと共感的な作りになっている物語では、ロルカーンこそ定命の者の次元が存在する理由であるとされている。

芸術家や職人としてか、それとも溢れる創造力からか、はたまた他の類似の感覚からか、魔法的存在は定命のアービスという種族を自分達のイメージに合わせて創った。

魔法的存在はその後、死んで原初の神々になった。原初の神々は定命の者によって神や魂やアービスの特質として認識され、崇められている。彼らの死にも関わらず、これらの魔法的存在は自分達を不自然な領域にいる他の魔法的存在から切り離していた。

デイドラがオブリビオンやパドメイの虚無に近い領域に適した、魂や神として創られたのもこの頃だった。これによって神話の時代(神話紀)が始まった。原初の定命の者達はこれを喜びに満ちた「第二の創造」もしくは(特にエルフからは)痛みを伴う神からの破砕など、様々に認識されている。これらを生み出したのは常にロルカーンだった。

モノミス:ロルカーンとサタカルMonomyth: Lorkhan and Satakal

ロルカーン

この創造者、詐欺師にして試練を与える神は、タムリエルに存在するどの神話にも登場する。彼の最も一般的に知られる名前はアルドメリの「ロルカーン」か破滅の太鼓である。彼は父親であるパドメイが始まりの場所に不安定さをもたらして現状を乱したのと同じように、原初の魂を説得、もしくはけしかけて定命の者の次元を生み出させた。その世界が実現すると、ロルカーンは神の中心地から離れ、伝承によっては不本意ながらという説もあるが、原初の神々の創造地をさまよう。これらの出来事は文化によって解釈が大きく違う。これから挙げるものは比較的良く知られている例である。

ヨクダ、「ワールドスキンのサタカル」

「サタクは最初の蛇と呼ばれる過去から来た蛇で、未来はこの蛇の光る鱗で眠っていた。しかし、それはとても大きく、他には何も存在せず、とぐろを巻いていた。未来は互いの間をすり抜けながらも、呼吸も存在することもままならないほどの空間しか与えられていなかった。そこでこの世界は外に出してくれるよう助けを求めるが、当然のごとく、最初の蛇の外には何も存在していなかったため、助けは内に求めるしかなかった。これが飢えのアケルである。アケルが存在を現し、サタクはこれ以上ないほどの空腹を感じることしかできずに、食べて食べて食べ続けた。しばらくすると世界に空間が生まれ、始まりの時を迎えたのだった。これらは新しく生まれたばかりで、存在することに慣れていないために間違いを犯すことも多かった。そのため、大抵の場合はすぐに早い段階で終わるか、上手にできないか、自分達で見切りをつけた。始まろうとする者も多かったが、サタクが近づいて全部食べてしまった。何とも惨い時代だった。

「それからすぐにアケルは、サタクを自らの心臓に噛みつかせ、それで終わりを迎えた。しかし、死後も空腹は治まらず、最初の蛇は脱皮し、新たな存在に生まれ変わろうとした。古き世界が消滅するとサタカルが始まり、物事はその図式に気が付くと、その中で彼らの果たすべき役割についても気が付いた。そのうちにラプトガやトゥワッカのような名前を名乗り、仲間を求めて歩き回った。サタカルは自分を繰り返し何度も何度も食べたが、強い力を持った魂は奇妙な方向に移動することで、それを回避できるようになった。この行動はウォークアバウトと呼ばれるワールドスキンの合間を歩く方法である。ラプトガはとても大きかったため、弱い魂が自分達の行き先を見つけやすいよう空に星を散りばめられた。これによって魂は道をとても見つけやすくなり、ここは碧落の岸と呼ばれる次の皮膚を待つ場所になった。

「ラプトガは周期を通して多くの子を生み出す事ができたため、長身のパパという名で知られるようになった。他の者のために星を並べて空を作り続けたが、周期が何度も何度も巡るうちに助けを必要としている魂が増えすぎてしまった。そこで過去の皮膚の残骸から助手を作り出した。これをセプもしくは第二の蛇と呼ぶ。セプの中には大きな飢えが残っていた。複数の皮膚にあった複数の空腹感である。その強い空腹感のせいで正気を保てない場合もあった。時折、助けなければいけない魂を食べてしまいそうになったが、長身のパパが必ず手を伸ばして魂を引き離してくれた。しかし結局、長身のパパの手伝いに飽きたセプは、古いものから新しいものを作りだせば新しい世界にたどり着けると言って魂を騙し、古い皮膚の残りを集めてひとまとめに丸めた。魂はこの方が楽だったため、この生き方をとても気に入った。1つの場所からまた別の場所に行かなくていいのだ。多くの魂はこれは良いことだと信じて加わった。これに対して長身のパパは、ただ首を振るだけだった。

「ほどなくして、サタカルの本当の世界から距離が離れすぎているために、丸められた皮膚の塊は死に始めた。そして、ようやく碧落の岸に飛び込むにも遠すぎることに気が付いた。残った魂は長身のパパに元の場所に戻してくれるよう懇願した。しかし、厳しいラプトガはそれを聞き入れず、今度は自分達で星を辿り、碧落の岸に行きつく方法を新たに見つける必要があると言った。それができないなら、自らの子供を通して生き続ける他なかった。しかし、セプにはもっと大きな罰が必要だったため、長身のパパはこの蛇を大きな棒で叩き潰した。すると空腹感が死んだセプの口から零れ落ち、それが第二の蛇に唯一残された物となった。セプを除いて新しい世界の者は皆、神格へと戻るために懸命に努力することを許されているが、セプは死んだ皮膚の中でコソコソ動き回るか、空を泳ぎ回ることしかできず、空腹を感じると嫉妬して星を食べようとしたのだった」

モノミス:世界の心臓Monomyth: The Heart of the World

モノミス:アルトメリ「世界の心臓」

アヌは過去も現在も、全てのものを包み込んでいる。自身がアヌイエルの魂と他の魂全てを創ったことに気が付いているのかもしれない。全ての魂と同様、アヌイエルも自己を顧みる傾向があったため、自分の形、性格、思考力に違いを付ける必要に迫られた。こうして生まれたのがシシス。アヌイエルが自分について思索する際に使用する限界の全てを持つ者である。このため、全ての物の魂であったアヌイエルは様々なものになったが、過去も現在も、これはアービスとの相互作用である。

最初、アービスはアヌイエルの熟考がやみくもに続いたため、動揺し、混乱した。それからアービスの一部は先々の予定や、完全な知識の外で長く楽しむための方法について尋ねた。こうした方法で自分自身を理解できるように、アヌは自分の魂の魂、アーリエルを創り出した。アーリエルはアービスから時という新しい力として流れ出た。時間と共に、アービスの側面は自分達の本質や限界を理解し始めた。そしてマグナス、マーラ、ゼンという名前を持つようになる。これらの1つ、ロルカーンは本質というより限界であり、どこであれ長く存在することはできなかった。

アヌイエルの各側面に立ち入ったロルカーンは、限界を基盤とする考えを植えつけた。その側面の側面が内省することさえできる魂をアービスのために創るという計画について述べたのだ。彼は多くの支持者を得ることができ、アーリエルでさえ、新しい世界の王になれると言われてロルカーンに手を貸すことに同意した。そうして、彼らは自分達の側面が生きるためのムンダスを創り、原初の神々となった。

しかしこれには裏があった。ロルカーンの思惑通り、この世界には限界が多く、そのためアヌのものなどほとんど何もない。ムンダスはシシスの家だったのである。彼らの側面が次々と死にいく中、原初の神々は完全に消滅した。マグナスのように逃げる者もいた。これゆえ魔法には限界がない。イフレのように世界全体が死んでしまわないよう、アース・ボーンズのエルノフェイに姿を変える者もいた。生き延びるために結婚や子供を作らなければならない者もいた。それぞれの世代は前の世代よりも弱く、すぐにアルドマーが現れた。そして暗闇に覆われる。ロルカーンは人間と呼ばれる最も弱い魂から軍を作り、シシスを隅々へと送った。

アーリエルは彼らを取り戻すようアヌに懇願したが、既に他のものでそれらの場所を埋めてしまっていた。しかし彼の魂は以前より穏やかでアルドマーを人間の大群から守れるようにと、アーリエルに自分の弓と盾を与えた。穢れた原初の神々に耳を貸したチャイマーのように人の女を妻にめとることで時の流れを汚した者もいた。

アーリエルはエルダーウッドであるアルトモラを助けることができず、人間に敗れた。彼らは旧エルノフェイまで南へ東へと追いかけられ、すぐ後ろにロルカーンが迫っていた。彼は地面を粉々に打ち砕いた。最後にアーリエルの最も偉大な騎士だったトリニマクがロルカーンを彼の軍勢の前で打ち倒し、彼の心臓を抜きだした。それでも完全には死んでいなかった。人間はロルカーンの身体を引きずっていき、未来永劫アーリエルの子孫に血であがなわせることを誓った。

しかし、トリニマクとアーリエルがロルカーンの心臓を破壊しようとすると、心臓が笑い出した。そしてこう言った。「この心臓は世界の心臓。一方が他方を満足させるために作られたものだ」アーリエルは心臓を矢にくくりつけると海の遥か遠くへ、新しい世界の誰にも見つからないところまで飛ばしたのだった。

モノミス:竜神と不在の神Monomyth: Dragon God & Missing God

「ムンダスにおいては、紛争と不均衡こそが変化をもたらすのであり、変化とは十一の力の中でも最も神聖なるものである。変化とは焦点も根源ももたない力である」
—エグニスル、タヘリタエ、PSJJJJ会

簡単に言えば、人間とアルドメリの世界観の違いは神と定命の者との関係性にある。人間は不死の者の力によって自分達は創られたと謙虚な姿勢を示しているが、アルドマーは自分達がそういった者たちの直系であると考えている。一見、大したことではないように見えるが、これがそれぞれの神話を作り上げる違いとなっている。

タムリエルにおける宗教の始まりは皆同じである。人間であれエルフであれ、世界の始まりはアヌとその片割れという二元論から始まる。この2つの力にはアヌとパドメイ、アヌイエルとシシス、アクとエル、サタクとアケル、肯定的存在と否定的存在といった多くの名前が付けられている。アヌイエルは言語に絶する永遠の光、シシスは言葉で言い表せない堕落した行為である。その中間がグレイ・メイビーだ(エルノフェクスで「ニルン」を意味する)。

多くの文化でアヌイエルは世界の創造に関わった者として崇められているが、実際の反応を生み出すのはシシスであるため、より高い位置付けとなる。このためシシスは原初の創造者であり、自分が意図していなくても本質的に変化をもたらす存在なのである。その存在はヒストでさえも認めている。

混沌のシシスに対し、アヌイエルは秩序として認識されている。アヌイエルが神話的背景でもシシスによる気まぐれの影に追いやられてしまうことから窺えるように、定命の者にとっては完全な停滞状態より変化を思い描くことの方が容易いのかもしれない。非常に生き生きと描かれているヨクダの民話で、サタクは「ハム」としてほんの数回しか出てこない。その力はあまりにも偏在しすぎていて、まるで存在していないも同然になっている。

ともかくこの2つの存在から原初の神々、もしくは原初の魂と呼ばれるものが生まれたのだ。これらの原初の神々は人間にとっての神や悪だが、アルドマーにとってはエドラ/デイドラ、もしくは「先人」なのである。タムリエルの神殿では原初の神々全員を祀っているが、文化によって神々として認識されているメンバーはそれぞれ違う。しかしどの神殿にもアヌやパドメイのような竜神と不在の神の典型が含まれている。

竜神と不在の神

竜神は必ず時と関連していて、一般的に「最初の神」として崇拝されている。「日が差すようになった無限の世界にある止まり木」の持ち主であり、アカトシュと呼ばれることが多い。シロディール帝国における神の中心である。

不在の神は必ず定命の者の次元と関連があり、人間とアルドメリを分ける際の鍵ともなる。「不在」というのは、この神が神殿にいない(様々に解釈されている別の精神的苦痛)という意味、もしくは不死の者から「聖なる光」を奪われたことを意味している。ロルカーンと呼ばれることが多く、良くも悪くも、様々な呼び名が多数存在する。

ここではまだタムリエルと定命の者の次元は存在していないことに注意してもらいたい。グレイ・メイビーはまだ原初の魂の遊び場なのだ。より強くアヌの光と結びつきがある魂もあれば、不可知な虚無とより強い結びつきを持つ魂もある。これらは一定流用と相互作用によって数を増やし、長い時間をかけて性格が固まっていく。アカトシュが形成されると時が始まり、魂が自身について過去と未来を持った者だと気が付きやすくなる。認識可能な魂のうち、最も強いものはメファーラ、アーケイ、イフレ、マグナス、ラプトガなどを具体化する。他は、概念やアイデアや感情のまま残る。その中でも最も強い、ロルカーンと呼ばれたむき出しの衝動がムンダス、つまり定命の者の次元を創る計画を練り上げた。

レッドガードを除く人間はこの行為を神の慈悲、低級生物が不死を手に入れる悟りと見なしている。逆にダークエルフを除くアルドマーはこの行為を、精神世界との繋がりを切り離す残酷な企みと見なしている。

月夜のロルカーンThe Lunar Lorkhan

ファル・ドルーン 著

アダマンチンの塔での出来事に関する様々な報告を説くつもりはない。また、明瞭なる暗喩の戦から生じた話が、俗に呼ばれる「物語」というものの特性に欠けていることに関しても、述べるつもりはない。皆それぞれに、ロルカーンに関するお気に入りの物語、ニルン創造の背後にあるお気に入りのロルカーンの動機や彼の心臓を巡るお気に入りの物語があるだろう。しかし、「月夜のロルカーン理論」はとりわけ注目に値する。

端的に言うと、今も昔も月は、ロルカーンの「聖なる肉体」の二等分から成り立っている。他の神々のように、ロルカーンは「偉大なる創造」に加わった次元(惑星)であった…八大神は自らの神聖なる肉体を一部貸し与え、定命の者の次元(惑星)を創り上げた。一方で、ロルカーンの肉体は粉々に砕け、流星の如くその聖なる光はニルンへ落ち、「その存在価値と多少の利己心の跡を残す」こととなった。

従って、マッサーとセクンダは、二分割の化身(アルテウムによるところの「裂けた二元論」)であり、ロルカーンにまつわる伝説でしばしば非難の対象となるのである。それはすなわち、アニマとアニムス、善と悪、有と無、そして肉体と嗚咽や、失敗した者のうめきと沈黙を織り成す詩歌などといった概念を指す。ロルカーンは、己の役割に命の限りがあることをいつも忘れぬよう、夜空に月を置いたのである。

この理論を支持する者によると、他の「心臓物語」はすべて、月の真原点に関する陳腐な神話であると言う。(また、言うまでもなく、「空虚なる三日月理論」に対しても同様にとらえている)

八大神の九戒Nine Commands of the Eight Divines

聖アレッシアの代祷によって、人は神の恵みや、そこから得られる力や知恵で満たされることだろう。その結果、これらの教えから八大神教団とその栄光の真の意味に至ることもできよう。八大神の知恵が大空というインクで、大海原という羊皮紙に記されているとしたら、多岐にわたる真理と美徳の機微のすべてを人の心に伝えることはきわめて難しい。それでもアカトシュは、人というものがせっかちで、悟りまでの苦しい道のりを嫌うとわかっていたため、その知恵において、力強い明確さと簡潔な定義でもってこれらの単純な十の訓戒をはっきりと書き記すことをお許しになられている。

一の戒:ステンダールいわく、優しさと寛大さをもってタムリエルの人々に接すること。弱者を守り、病人を癒し、貧民に施すこと。

二の戒:アーケイいわく、生と死を分け隔てることなく、大地、生物、精霊を敬うこと。この世の恵みを保護し、慈しむこと。また、死者の魂を冒涜しないこと。

三の戒:マーラいわく、まじめに穏やかに暮らすこと。両親を尊敬し、家庭や家族の平和と安息をいつも心がけること。

四の戒:ゼニタールいわく、懸命に働くものは報われ、賢くお金を使えば心が救われるだろう。盗まなければ、罰せられないだろう。

五の戒:キナレスいわく、母なる自然の恵みを賢く使うこと。自然の力を敬い、自然の怒りを恐れること。

六の戒:ディベラいわく、美や愛の神秘に心を開くこと。友情という宝を大切にすること。謎めいた愛のなりかたちに喜びや創造力を見いだすこと。

七の戒:ジュリアノスいわく、真実を知ること。法を守ること。疑念があれば賢者の知恵を借りること。

八の戒:アカトシュいわく、皇帝に奉仕し、従うこと。誓約を学ぶこと。八大神を崇拝し、務めを果たし、聖人や司祭の言うことを聞くこと。

九の戒:八大神いわく、何にもまして、お互いに優しくすること。

おのおのがこの九戒という鏡をのぞきこみ、そこに天の恵みが映って見えたのなら、これらの訓戒を忠実に守っていれさえすれば、人は悲しみ、悔い改め、慎み深くなるだろう。従順なものが八大神の祭壇を訪れれば祝福され、八大神の慰みや癒しを授けられ、様々な慈悲に感謝の意を表するだろう。

聞き分けのない不道徳なものは、顔を背け、全知全能の八大神より授けられる純粋な知恵をないがしろにし、罪過と無知に満ちあふれた毎日を過ごす。犯した罪の耐えがたい重荷を背負い、人にも神にも邪念を見とがめられ、八大神の祭壇や神殿を訪れても祝福や安息を与えられることはないだろう。

それでも、悪人や愚者が救われないわけではない。どこまでも慈悲深い八大神はこう言っている。「悔い改め、善行を積むのだ。さすれば、恵みの噴水のしぶきはまたお前にも降りそそぐことだろう」

罪を悔い改めよ。過料として皇帝に金銭を納めるがいい。信仰とその恵みを人々にあまねく伝えるために使われよう。

善行をするがいい。輝かしい徳を積み、汚名をそそぐがいい。正義漢としての名声を八大神に知らしめるがいい。そのときこそ、聖堂の祭壇や祠に歩を進めれば、八大神の慰みと恵みを授かることができよう。